「松江の地名の由来は何ですか?」 佐和田
佐和田 丸
 
  松江観光大使を抑せつかっている私は、時折、 松江の地名由来を聞かれることがある。わかり ません、知りません、とも言えず、私なりにし らべてみた。巷間よく知られているのは、下記の諸説である。

(一)『懐橘談』『雲陽誌』という江戸期の 地誌によるもので、松江城を築いた堀尾吉晴 が、松江の風景が湖面に美しく映え、鱸(すずき)や蓴菜(じゅんさい)を産するところが中国 浙江省の淞江府(ずんこうふ)似ているとして命名したという説。

(二)新井白石の著『紳書』によると、堀 尾氏の家臣で松江城の縄張工事にあたった小 瀬甫庵(おぜほあん)が「鱸の名所也」として命名したという説。

(三)『雲陽大数録』では圓成寺(堀尾氏三 代の廟所)開山春龍和尚の命名とし、「唐土ノ 松江、鱸魚卜蓴菜卜有ルカ故名産トス、今城 府モ其スンコウニ似タレバ、松江卜称ス 云々」と記されているという説。

 そして、昭和53 年(1978)には、島根大学の 入谷仙介教授も地元新聞に、命名に苦心して いた堀尾吉晴が、渡明の経験のある春龍和尚 の進言もあって「松江」を採用したのではな いかという推論を発表されたりしていた。
 以上の諸説はいずれも、開府後の中国伝来説といってよい。そして、これらは観光誌な どで、盛んに利用喧伝されてきた。
松江藩の時代  他方、郷土史家の先達である藤岡大拙氏が、 これらの説を否定し、『松江』の地名は開府以前からあったという論考を「松江開府400 年 松江藩の時代」(平成20 年山陰中央新報社)の 冒頭に掲載されている。既にその前の平成13 年3 月には「湖都松江」創刊号の特別稿に「椿説 松江地名考」として掲載されておられる。
 それによれば、「天文3 年(1534)、越前福 井の人、大森正秀が出雲大社参拝の旅を「出雲紀行」として著わしている中で、“出雲の松江の府に至ったら、そこの錦浦は磯馴松(そなれまつ)生い連なる美しい風景であった” と記している」とのこと。
 藤岡氏は、「松江の府」はおそらく意宇川の 河口あたり、「錦浦」は出雲郷の南岸あたりで はないかと推論され、その70 年後の松江開府 時に、堀尾吉晴はその狭い地帯の地名の「松江」を、末次、白潟二郷を含む広い地帯の地名に拡大して採用し、それが中世から近世の 松江への転換点となったと論考しておられる。
 同氏は、少なくとも、松江開府の70 年前に は(もっと前からかもしれない)、「松江」と いう地名が狭い地域であったにせよ存在していたという史実に即したこの論考を発表されている。
意宇川 錦浦
意宇川河口付近にあった
錦浦の様子
(「松江藩の時代」より)

 平成10(1998)年7 月、和歌山毒物カレー事 件が発生した。読者もご記憶の方もおありと 思うが、地区で行われた夏祭りにおいて提供 されたカレーライスに毒物が混入され、67 人 が急性ヒ素中毒になり、うち4人が死亡した 事件で、犯行現場からほど近いところに、「松江」地区がある。
 「松江地区」があると知り、角川地名辞典 で調べてみたら、昔は松林に囲まれた美しい 入江で、名前もそれに由来し、今は埋め立て られ広大な日本製鉄和歌山製鉄所となってい る、とあった。

 私はその時、和歌山でそうなら、古代からの 人間の営みの盛んなわが「松江地帯」にも、昔 ~ 16 ~ から「松林に囲まれた入江」があって、開府以前から「松江」と呼ばれていたとも考えられる。 昔の人は、単純にまわりの自然に合わせて命名 してきた。田の中に家があったから「田中」。 木の下に家があったから「木下」など。

 松江の場合も、和歌山松江と同様に、中国伝来や、他地域の旅人が命名したのではなく、周りの自然にあわせて、当時の住民が名付けたのではなかろうか。   

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