「式年神幸祭(通称ホーランエンヤ)」は、松江城稲荷神社の御神輿を、芦高(阿太加夜)神社の本殿に迎えて一週間出雲の国の五穀豊穣と産業の発展を御祈願する祭りです。
慶長十二年(1607年)堀尾氏が築城を始めた亀田山は、石垣が何度も崩れ、作業に従事していた人たちが怪我をしたり物の怪に襲われたりしました。そこで、堀尾氏の依頼により、芦高神社の神主松岡兵庫頭(芦高兵庫神社の祭神)は二夜三日の祈願を行い、鎮守八幡の祭事を執り行いました。すると、騒ぎは治まり、無事に築城することができたのです。
寛永十五年、堀尾氏が築城してから約二十年後、信州松本から松平直政公が松江に入城しました。入城後十年目に当たる年は風雨が多く五穀がよく実りませんでした。そこで、城内稲荷大明神を芦高神社に勧請して、五穀豊穣を祈願しました。正保四年のことです。
以来、十年毎、又は十二年毎に斉行され、出雲国の五穀豊穣と産業の発展を祈願してきました。
文化五年の神幸祭の際、浪風激しく馬潟沖において神輿船が危険な状態となった時、馬潟の漁師達が船を出し、これをよく援助して無事芦高神社に御案内しました。これが「櫂伝馬船」の始まりであり、文政元年の神幸祭より馬潟組の人達は引船の役を承り、矢田組、大井組、福富組、大海崎組の五組が揃って奉仕するようになりました。 |
拝殿でお祓いを受けました |